アパートは、幸のものではない。
名義人は幸の所属する公的な団体。
幸のような能力者は数多く存在するわけではないし、まとめて同じところに居住する必要性は低い。
そんな理由で、能力者は個々の都合に合わせて、適当な賃貸物件を「1部屋」単位であてがわれる。
契約だ。
幸の持ち物の全ては契約という一語に集約できる。
真っ暗な部屋に帰らずにすむために、出かけるときにはいつも小さな常夜灯を玄関先に灯す。
LEDの、温度のないオレンジ色の光。
腕を伸ばし、すぐに天井の明かりをつけた。さっきまで圧倒的に空間のほとんどを支配していた暗闇が、その瞬間に消え去る。
蝋燭の炎やフロアランプを好んで使い、部屋を薄暗くすることで心地よさを感じるタイプの人間は、きっとそこに生じる陰影になんの恐怖も感じないほど現実に夢中なのだろう。
あるいは、望まず闇に投影してしまうほどに不快な記憶を、その脳裏に持ち合わせていないのに違いない。
幸は暗闇が嫌いだ。
冷たい水で顔を洗う途中、ふと思いついてそのまま鏡を覗き込んだ。
無表情の頬を水が流れ、前髪が濡れている。そしてその目――
「!!」
濡れたまま部屋に引き返し、数年間触れることさえなかった懐中電灯を探す。
自分の目の色なんて、よくは知らない。でも、間違いなく、こんな色ではなかった。
ただ、それは洗面所が薄暗いせいだ。
昼間の光の下では、もっとありがちなこげ茶色であるはずだ。
そう考えながら、幸は記憶を探る。
「あった・・・」
少しホコリのついた懐中電灯を手に、再び鏡の前に立つ。
直接透かせばほとんどの日本人は茶色い目をしているはずだから。
「・・・」
セラミックのシンクから、歯ブラシが転げ落ちる。
懐中電灯の直線的な光に照らされた幸の目はその眩しさに瞳孔を絞ったはずだったが、幸にはそれがよく見えなかった。
虹彩と瞳孔の境界がわからないほど、幸の目は深く、濃い色をしていた。
胸を打つ、違和感。
『昨日までは、栗の殻みたいな色してた』
林の無邪気な声がまるで頭上を旋回するように何度も聴こえ、幸は呆然としながら機械的に歯ブラシを拾った。

